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(1084)隣人愛的関係の育成を!(津村先輩の言葉)
2010/07/29

 ここ数日の暑さに負け、寝転がって昔の資料を漁っていたら、姪浜校区自治連合会創立50周年記念の冊子と出会った。これは平成15年11月22日に発行されたもので、現・姪浜校区自治連合会の前身が昭和27年に「姪浜校区町世話人会」として発足して、この年で50年を迎えると記してある。
 私も今、今津福祉村40年をまとめる作業に入っている。「まとめ」は記念誌やDVD、記念式典や講演会などの計画を多くの皆さんと一緒に生み出している。関係者は経験も知恵もくぐってきた生活も同じではないだけに、なかなか企画は全会一致では進んでいかない。それだけに苦悩も尽きないところですが、この小冊子に出会い、目の覚める思いがしました。と、言うのは姪浜の小冊子編集に携わられた人は、私がかねてから尊敬している元姪浜校区自治連合会長・元姪浜公民館長の津村正先輩です。先輩の日頃の言動と、記された言葉や資料を重ね併せ、大変勉強になった。姪浜の形成史がここでは述べられています。

 五十年を記念して   (前略)
そもそも姪浜町は昔からの農漁村で江戸時代は唐津街道の宿場町として姪浜千軒といわれて繁栄していましたが、大正初期炭田の発見で炭鉱の町として大発展を遂げ世帯数も約四千戸人口も一万九千人となり生まれ変わりましたが太平洋戦争の戦後そして昭和26年の朝鮮動乱を頂点に重油によるエネルギー革命でその地位を追われ、やがて昭和37年12月に閉山、愛宕山北側と小戸の突端にボタ山を残し町内に30ヘクタールの陥没地をつくってヤマの灯は消え、その後ボタ山は削られて海を埋め昭和44年から800戸の豊浜団地が誕生。また小戸地区も公園、競技場、ヨットハーバー、団地も造成され様相を一変した。急激な宅地化で人口増加で昭和34年4月、内浜小学校開校、更に昭和54年4月愛宕小学校、昭和55年内浜中学校の開校、更に平成8年4月愛宕浜小学校と三小学校と一中学校に分離しました。昭和53年11月頃より姪浜駅南一帯の区画整理事業案が行政より提示され説明会が開始されたが賛否両論、なかなか事業案が纏まらなかった紆余曲折種々な問題を抱え平成元年十月から事業を開始され平成15年3月完成しまして現在世帯数も約六千四百戸、人口も約一千四百人の大校区になり誰もが夢想だにしなかった大都市になりました。
(後略)

 ある学校に行き、その校区の歴史を記述してある「年史」を読んでみて、校長先生と二人で改めて地域のことを学ぶことがどれほど重要か、と言う話になりました。姪浜の発展してきた歴史がよくわかり、これから先を津村正先輩は「地域社会の発展を願い隣人愛的関係の育成にお互いが心がけていく努力をしていきます」と、述べてあります。
 

(1083)「被爆63年、子どもたちに核のない未来を!」
2010/07/27

 原水爆禁止福岡県民会議の福岡地区実行委員会(津留雅昭弁護士:代表)は7月27日(火)午前9時から中央区の警固公園で出発式を行い、次の筑紫地区までの行進を行いました。

 私は闘病生活もあり、ここ数年欠席していました。6月には麻生知事に「核廃絶・平和行政に関する要請」を山崎副知事に行ったことは報告した通りですが、そこでは「自治体が先頭に立って地域から核の恐怖を取り除き、核と人類は共存できないことを原点に、ふたたびヒバクシャをつくらない取り組みが必要」として強く訴えました。その中で、平和行進を行う皆さん方へ「被爆63年、子どもたちに核のない未来を!」のメッセージを長崎大会参加者へ託していただきました。このような小さなことでも県民の声を実現しようという気持ちがありがたいことと思います。

 出発式では、私も都留代表や被団協会長の挨拶の後に連帯と激励の挨拶を行う機会をいただきましたので、先日の県・県教委との協議を紹介し、共々に頑張りましょうと訴えました。米韓によって現在、共同戦闘訓練が身近なところで行われているにもかかわらず、その情報が十分に入ってこない矛盾を政府に訴えて欲しいこと、更に、被爆二世・三世の健康不安を解消するために、県下4箇所から20箇所へ検診会場を増やしたことはよしとしても、少なくとも20万人から30万人の方々がいらっしゃることを前提にして取り組みを強化すること、そして、「非核三原則」を厳守する基本を強く政府へ求めて欲しいと訴えました。
 
 私は警固公園までの道のりで二人の今年ご逝去された先達のことを思い出していました。一人は、川口勝彦先生、もう一人は糸島市雷山空襲を語り継ぐきっかけを作ってこられた大原重種さんのことでした。川口先生は新聞やテレビで幾度も報道されたので、皆さんご承知のことでもあり略します。大原重種さんは雷山の蔵持で花卉農業を糸島でいち早く勤められ、地域の安心・安全の確保に向けて生涯をかけてこられた人でもあります。
 応接室や座敷に上がりこみ話し始めると何時もセピア色に変色した記録を持ってきて、この集落に火の雨が降ったことを、そして興福寺境内には「首なし地蔵」が残っていること等を熱心に話してくれました。この言葉が今も耳から離れません。「こんな静かな山村にも、戦争被害があった。地蔵はその歴史を伝え続ける。」

(1082)酷暑お見舞い申し上げます
2010/07/23

 酷暑お見舞い申し上げます。それにしても梅雨明け宣言が出たかと思う間もなく「暑い、暑い」の連続で大変な今日この頃ですが、如何お過ごしですか。
 地球の反対側に住んでいる友人の話では「寒波と降雪」に見舞われて大変だ、というメール(下記、参照ください)が届きました。
 このような異変も、地球温暖化の影響でしょう。例年にも増す厳しい暑さと集中豪雨に各地が見舞われています。
 ご承知のように西区ではマスコミをにぎわすような事故・事件まではありませんでしたが、急傾斜地などにおける土砂崩れなどが点々と起こっています。しかし、地域の結束力で復旧も関係行政のご尽力によって、すばやくできそうな状況です。これもこの地域の人間味溢れる地域性ではないかと感謝しています。

 私ごとですが、体調を心配していましたがモンゴル国への友好親善、三回目を二十三名の参加を得て成功させることができました。障害当事者の皆さん方も5名参加いただき、有意義な見学・学習・鑑賞・交流などができたと思います。目的の一つに、モンゴル国大使館等との事前の協議によって、グローバル化時代を迎え食料自給率の向上を目指して大麦を広大な大地に植えてみようと、そして麦焼酎をつくろうという企画を持って臨んだのですが、何とか成功するのではないか、と言う現地の実態調査もできました。これから先の展開を楽しみにしています。

 暑さ厳しき折柄、今後とも皆様には今後とも親しくご厚誼・ご鞭撻を賜りますよう何卒宜しくお願い申し上げます。
 ところで、糸島高校野球部の後輩の皆さんが県ベスト8に残り、もう少しのところで甲子園への夢を実現できるところまで頑張ってくれました。野球部OB会の副会長としては応援経費の工面を考えないといけないと心配していましたが、もう少しのところで残念でした。        先ずは書中にてご挨拶まで。                         二〇一〇(平成二十二)年七月二十三日

(友人からのメール参照)
昔の記録的な南米寒波の思いで、今年の南米大陸は寒波の襲来で、かなり酷い被害が出ているようです。
46年前もアルゼンチンのボリビア国境地帯にも、南極からの寒波が上がって来て、冬季出荷の野菜類や果実は大被害を受けていました。
大陸性の乾燥地帯の内陸部です、河縁の僅かな肥沃で河の水源に近い農地の、霜も降りない土地は高値で取引されていました。
46年経っても、その河縁の土地はグーグルアースの衛星写真で見ても営農が続けられている事を目視出来ますし、今では簡易の温室がその土地にかなりの割合で広がっている事を確認できます。
私が働いていた農場でも、霜の気象予報が出ると用心して、河から畑の畝の中に水揚げポンプで水を流し込んで被害を最小に止め様と苦心していました。河向こうでは限られた実が収穫出来るトマト畑だけ、スプリンクラーで河の暖かい水を汲み上げて、散水していました。
これも霜と零下に温度が下がり、朝方はツララが垂れていたと言う事を聞きましたが、他の農場では廃油をドラム缶で焚いて油煙を作り暖かい気流を流すようにして、霜が降り始めると、タイヤなど燃やしていました。(以下、省略)

(1081)アナグマ被害の防止を!
2010/07/22

 近所の方から、大きなスイカをおすそ分けいただき、とても美味しく賞味いたしました。
 聞くところによると、「アナグマが鋭利な爪でスイカの美味しいところを抉り取ってしまい、せっかく熟れて大きくなってきたものが駄目になってしまう。そこで食われて駄目になるより、熟しには少し早いかもしれないが、皆さんに食べていただくほうが喜ばれるからどうぞ。」と、言うことで有り難く頂戴しました。

 それにしても、第一産業・農業に携わる方々は、自然・天候に左右され大変な思いをされています。先日の大雨でも、大豆播種後であったため、種子が駄目になってしまい、再播種という事態にもなっていると、佐賀県からの報告も受けました。生産者の方々は本当に大変な思いをされています。何とか力になりたいと思いますが、如何でしょうか。

 ところで、加害のアナグマは近年繁殖してきた種のようで、クマ(クマ科)の仲間ではないようです。福岡普及センターの話では、「アナグマは穴を掘るためのきわめて長い爪を持っている。アナグマの足は丈夫である。一見クマのそれによく似ている。歩くときもやや内股気味に前足を付く。不通、単独で行動しているが、穴には1頭だけで入っていることは少ない。普通雌雄2頭、または4〜5頭が一緒にいることが多い。アナグマは、本来肉食性の動物であるが、植物質も相当食べている。秋には植物質に依存する度合いが高く、大食する。それは冬ごもりのために脂肪を蓄えるからである。この冬ごもりは、完全な冬眠とは違い、少しの刺激で起きる状態である」、という情報を得ました。

 また、その時に受けた説明では糸島市が鳥獣被害防止計画を策定されていることを知りました。それによると、「アナグマについては、中山間地域だけではなく、市街地周辺の側溝や小屋等にも住み着き、市全域に渡って被害が出ている。被害作物はトウモロコシを中心にビワやスイカ等家庭菜園の農作物を食い荒らしており、管井的なネットを張り防除をされているが、ネットの下から侵入して被害は拡大している。」と、被害状況が述べられています。そして、平成20年におけるアナグマ被害額は288万2千円、被害面積63aと、そこで平成24年被害の軽減目標を201万7千円、44aと示されています。

 従来講じてきた被害防止対策では銃器・罠による捕獲をしているそうですが、近年の地球温暖化の影響を受けて冬の寒さが以前ほど厳しくないようになっており、猟期における捕獲だけでは固体調整を行うまでには至っていないそうです。また、アナグマはイノシシ捕獲用の箱罠にしばしば入るそうですが、箱罠の網目が大きいために殆どが逃げ出しているため、アナグマ捕獲用の箱罠やワイヤーメッシュ柵などを設置する必要があるそうです。

(1080)文化芸術振興に力点を!
2010/07/19

 7月15日(日)の午後から第8回日中友好児童絵画展の表彰式が福岡市中央区の中国領事館で行われました。福岡県下の就学前から小学校高学年の子どもたちの作品、2916点の作品が応募されました。その中から、小学校の図工科研究委員会の先生方の審査をくぐった作品と、中国上海の子どもたちの作品が県知事表彰をはじめとして、夫々20名ほど優秀作品と認められました。
 私は県議会日中友好議員連盟の役員として表彰式に臨みました。
 日中の子どもたちの入賞・入選作品各168点、中国各地友好交流団体の子どもたちからの特別出展が行われ約80点、福岡アジア美術館交流ギャラリー(リバレインセンタービルの8階)に20日まで展示されています。
子どもたちの絵を見て回りながら、子どもの力強さや明るさ等の良さが素直に表現されている、と感じました。
 中国上海の子どもたちの絵はこれまでにも増して、上海万博が行われて経済的にも豊かになったことを示すかのように明るく元気な作品の印象を強く感じました。表彰された両国代表の子どもの挨拶も立派なもので、緊張と感動、喜びや不安が良く表されていたと思いました。
 最後に、この取り組みを積極的に進めてこられたベルポ会の方から、子どもたちへ貴重な体験を皆さんはしました。国際的な視野を広げ、グローバル時代を生き抜く国際人として仲良く手を取り合って頑張ってくださいと激励の言葉が述べられました。その閉会後、聞くところでは北九州方面でホームステイをした後、別府で一泊し帰国の途につかれるとの事でした。

 中国代表団の魯団長からは、2011年は辛亥革命100周年を迎えます。中国ではこの100周年を迎えるために様々な準備が進められています。これに深く関わった孫文先生は福岡との繋がりがとても強く、理解者も沢山いらっしゃいます。それだけに辛亥革命によって、中国はアジアで最初の共和国を樹立し、清朝260年余の支配と秦漢以来2000年にわたった皇帝専制の歴史にピリオドを打ち、変革への重要な第一歩を踏み出し、更に発展をしていくことになります。と、この趣旨でメッセージが送られたと思います。

 改めて、この絵画展は、美術教育の一つである絵画という共通の文化を通して、日中両国の次世代を担う子どもたちの交流を図り、相互の理解と共に、教育と文化の促進を目的とするベルポ会の趣旨が大きな波動となってきたことを物語っているように思えてなりませんでした。

(1079)戦争の爪あと・原水禁と福岡県・県教委との協議
2010/07/17

 若い人々は自分たちには体験がない、と言うが、体験の有無に関わらず「平和」は現代的な新たな課題に常に直面しているのではないだろうか。戦争を賛美する人びとはいないはずだからなおさらである。
 先日、老人クラブの寄り合いで遺族会の役員を勤める親戚の人が同年の高齢者から「何で大学や一流企業に入れる学力も秀でていたのに、何で家業を継いだのか」、と問いかけられていた。それに対して親戚の方は「学校時代は勉強しとけばよったけど、上級学校や仕事となると今のように本人次第ということではなく、両親の保証が絶対条件のようになっていたので、保証人が要らない家業を継がざるを得なかったのだと話し出した。六十数年、「兄ちゃん」として慕ってきた人から初めて父親が戦没したことの結果がこのような形(爪あと)で残っているから遺族会のことで一生懸命になっていると話してくれた。目頭を紅くしながらの訴えに回りにいた人々は返す言葉を持たなかった。

 ところで、6月11日に副知事に「核廃絶・平和行政に関する」要請を行ったことに関する意見交換会を議会会議室で行った。冒頭の挨拶の中で、私は今回の大雨に伴う被害の甚大さを訴えると共に、この災害は自然ではなく人災でもあると申し上げた。その理由は「活動日記」の前号を参照して欲しい。その後、原水禁県民会議の代表と県総務部長が昨今の平和に関する情勢を踏まえ挨拶を行った。そして、要請事項に即して担当課から回答が示され、質疑応答を行った。
○;県は神奈川に継いで2番目の非核宣言都市に入ってほしい。県内では13自治体が非核自治体協議会に加入しているものの、県として非核の意思を増やすよう要請する。
○;米軍の活動が見えにくくなってきている。米軍に関わる自衛隊を含めた基地が県内には芦屋、築城、板付とあり、アメリカ潜水艦が親善友好を目的に博多港に入港する機会も多くなってきている。その情報が入りにくく、県として政府や米軍へきちんとした対応を行うよう強く要請する。
○;福岡大空襲をはじめとして、戦争や原爆の風化が叫ばれている。マスコミは生の証言を記録するアーカイブを持っている。それらと連携した平和行政資料を作成して欲しい。
○;県教委は同和教育で「かがやき」を作成した。その経験を発展させて県独自の資料を収集して、現場の問題に的確に対応できる取り組みの整理を図って欲しい。
○;被爆者の証言者が減少してきている。体験を学ぶ機会を行政として設けて欲しい。
○;夏季休業中、平和教育は低調になってきている。特に福岡教育事務所管内の学校は学力向上同様の視点からも指導強化が必要だ。北九州地区は53%の実施状況にあり、各学校の一層の奮起を期待している。
○;被爆者二世の健康診断について、行政は積極的な働きかけを行って欲しい。私の地域の被団協では74歳が動ける平均的な年齢となっている。その方々は子どもさんを2.45人持っており、県全体で想定すると23000人くらいの被爆二世が想定される。検診の場所を4箇所から20箇所と増やしたことは評価する。この実態を考慮して対応強化を要請する。
○;非核三原則を厳守するように政府へ強く求めて欲しい。
○;その他にも意見が様々な観点から提起されたことを付して協議の報告とする。

(1078)地域の声を十分に聞いて工事をしないとツケはいつか必ず回ってくる!
2010/07/16

 7月15日(木)曇り 昨日までのような大雨とはならなかったものの、河川の汚れと薙ぎ倒された草木の流量は大変な状況となっている。今回も下流域の漁師の方々が自主的にゴミの回収を船で行われている。大変だろう、という気持ちしか出すことが私にはできない。
 16日も日本海側で局地的大雨の恐れがあるとも。一刻も早く静まってほしい。テレビなどでは土砂崩れや河川の崩壊が九州と山口の顕著な様子を報じているものの、調査を行う中で近辺においても土砂崩れによる道路寸断、土石流の家屋への流れ込み、河川下流域のゴミの集積など被害はどこもかしこも同様の状況を示している。

 私が、一昨日来の調査を行いながら国や県、市に対して大変腹が立っていること、一つだけを提示する。 それは瑞梅寺川に流れ込む水崎川を九州大学伊都キャンパスの流域面積からして県二級河川へ昇格させ拡幅工事を行った。このこと自体に異論あろうハズはない。が、私が指摘していた通りこれだけの拡幅では大量の水の氾濫は治まらないということである。
また、それは瑞梅寺ダムが満水となり放流された時期が潮時と重なって、水捌けができなくなったことと重なってしまったのである、確かに今回の場合は。

 これまでに私や地元からは水崎川の工事だけでなく、今津湾へ流出している大原川の拡幅も加えないことには大量の伊都キャンパスの面積からして不可能だと主張し、設計変更を幾度も主張し続けてきたのである。迂回させる道も必要だったのである。

 これを無視し続けてきた行政の在り方を考えると自然災害というだけではすまない、正に人災と言わざるを得ない。行政の方は先祖伝来、地域で語り継がれてきた危険回避の道筋や方途を聞く耳を持っていないといけないのではないのか。

 ところで、今回の大降雨は糸島半島が伊都郡と志摩郡とによってできていることの証左が瑞梅寺川今津湾と加布里湾との見通しによってよく分かり、この両地域を干拓地化してできた糸島地方であることがよく分かる、という「おまけ」がありました。昭和28・36災害と称される時もまったく同様に加布里湾まで水浸しになっていたことを思い出した。
 
 これからも台風や大雨、地震など災害発生時における即時対応がよりスムーズになり、住民の安全確保を考えると、改めてモンゴル国で大事にしている「天空・大地・水」の神様との付き合いを丁寧に行っていくことが必要ではないかと思った。
 そして、使い古されたことかもしれないが、政治は議会・議場に存在するのではなく、生活現場にこそあるということを改めて実感している。

(1077)見・聞・触・思ったことの幾つか(モンゴル訪問記その5)
2010/07/16

13.スフバートル広場:日本人捕虜が建てたと説明のモンゴル国会議事堂、外務省建物などに囲まれたスフバートル広場、その中央には革命の指導者スフバートルの騎馬像があります。
台座の横には「我が人民が一つの方向に、一つの意志に団結するならば、我々が獲得できないようなものはこの世に一つとしてない。 我々が知り得ないものはないできないことも何一つとしてない」と、スフバートルの言葉が刻まれていました。

14.ガンダン寺:このお寺は、チベット仏教の再評価や寺院の再建、文化財の保護、修復運動の中心的存在となっているところです。境内に入ると、私達が子供の頃、駅などで、傷疾軍人といわれる人達がいたように、障害を持っている人が募金箱を持っている姿がありました。
 また、小学校へ入学しているのかな?と思える子供、ハトにくれる餌のキビ(豆ではない)袋を手にいっぱい持って、熱心に売り込んでいる。昭和20年代の日本と重なるような、この国の厳しい一面が見てとれました。
 お寺の中には26メートルの金箔観音像が安置。まわりは回廊になっていて、外側には奉納すると「長生きする」という仏像が所せましと並び、内側はローソクをあげる人でにぎわっていました。この観音さまも、スターリンによって1938年破壊、ソ連に持ち去れたが、1990年(平成2)建造が始まり、1996年(平成8)に完成したと説明がありました。
 境内にはほかに、経典が入っていて、手で回すとくるくる回る筒が数多くあって、参拝しながら回す人が引きも切らず続いていました。その他、五体投地(全身を地につけてお祈りする)する場所もあって、仏教信仰の根強さを肌で感じました。

15.自然史博物館:ここは、モンゴルの自然に関する展示物会場でした。日本とは正反対に、国境が海に接していないモンゴル、信じられないことにモンゴル高原はかつては海だったのです。大陸になったのは約2億4千万年前で、ゴビ砂漠は世界有数の恐竜化石の産地、この博物館では特に巨大な恐竜タルボサウルスの骨格標本が目玉になっています。ゴビ砂漠に恐竜が闊歩していた、海→大陸→恐竜登場→砂漠・草原への変化を想像してみると、動かぬ大地、実はものすごい変化をしている地球の不思議を思わずにはいられませんでした。
 この博物館。卵から孵化したばかりのカエルそっくりの恐竜化石、これがあの巨大な恐竜に成長するのかと、とても信じられませんでした。恐竜が絶滅したという説に、地球への隕石の衝突があります。ここにも582キロ(1952年発見)という隕石の展示があり、どこの星の彼方から来たのか。しばし悠久の時の流れに思いを馳せたことでした。

16.日本人墓地:「在モンゴル、日本人死亡者慰霊碑」のパンフレットが置いてあった。そこには、1945年(昭和20)〜47年(昭和22):第2次世界大戦の時に、1万2000人以上の日本の軍人が捕虜になり、強制就労させられましたが、そのうち1500人が亡くなりました。66年(昭和41)8月25日「在モンゴル死亡者連盟」によって「皆さんの故郷、日本は復興しました。安らかにお眠り下さい」の日本人死亡者慰霊碑が建設された。01年(平成13)10月15日、ようやく日本国政府の慰霊碑の除幕式。碑には「さきの大戦の後、45年から47年までの間に祖国への帰還を希ながら、この大地で亡くなられた、日本人の方々を偲び平和への思いをこめて、この碑を建設する。竣工 平成13年10月15日、日本国政府、と記述されているものでした。

17.民主化・近代化:ところで、前回訪問した07年と異なっていると実感したことは近代化、グローバル化でした。ウランバートルの街やレストラン、ホテルで会った学生やサラリーマンリマンなどの様子からは日本と変わらない生活がなされているように思えました。着実にモンゴルでも進んでいると実感しました。全人口200万の内ウランバートルに50万人が住み、一極集中化している傾向が強化されていると思いました。ウランバートル市内の大通りや郊外で目を見張った近代的なマンション建設ラッシュとあちらこちらで道路の工事が進められていました。そして、氾濫する自動車と砂ぼこり、砂漠化の中でゲルの消滅とさえ思うような屋根有り住宅の多さでした。
 特にモンゴルの首都ウランバートルでの超スピードで進む民主化・近代化、その象徴として郊外へ向かって林立する高層建築物にみられる躍動感。一方、千年以上に渡って続いているという遊牧民とゲルの生活、大自然の恵みを生かしきって、悠々としたたかに、たくましく生きつづける姿を見ると、どちらが進んでいるかと問うことではなく、共生とか環境に対する考え方の両極を見たような気がしました。宗教についても、人にとって、生・老・病・死があるかぎり、全く無くなるものでないことを、古い寺院のたたずまいや参詣する人々の絶えない光景をみて思いました。

18.最後につたないモンゴル旅訪問記を読んで下さった方に御礼申し上げ、モンゴル語で「ありがとう」を示す「バイラルラー」を添えて終わりにいたします。

(1076)見・聞・触・思ったことの幾つか(モンゴル訪問記その4)
2010/07/15

10.道路・交通事情:日本流に言えば悪路の途中に料金所が出てくる。ここでは有料道路と言う意味ではなく、他県に入る所で料金を徴収することになっているそうだ。料金は80トゥグルク(Tg)日本円で約8円になる。モンゴルは、18県とウランバートル特別区があるそうだ。舗装道路は珍しい。スピードは上がるし砂埃も立たないし、振動がないのが何よりも助かった。しかし、またすぐに凸凹道になってしまう。
ウランバートルに入る直前突然貨物列車に出会った。ディーゼル機関車4両が貨車を100両ほど引いてゆっくりと走っていた。線路は、南は北京に西はモスクワと結ばれている。シベリア鉄道である。
 モンゴルの市民の足はバスとトロリーバス。バスは距離に関わらず、1回200トゥグルグで、車内にいる車掌に直接支払います.トロリー電車の料金は100トゥグルグです。
 モンゴルでは信号機が殆どなく林立する車の間を縫うようにして横断しなくてはなりません。自動車は右側通行なので、横断の時は左側からの安全を特に確認しなくてはならない。
 宿泊地までの長い道路沿いに「オボ」があり、その場に停車し「いわれ」などをガイドから聞きました。そこには道路脇に石を三角に積み上げ、棒を立て、青い衣を巻きつけたものが見えます。「オボ」といって、現地の旅行者は、時計廻りに石を積みながら(投げながら)3回以上廻って安全を祈りながら旅を続けるのだそうだ。
 バスは、簡易舗装の凸凹道、穴をよけ、対向車をよけながら右に左に走行、後部座席の人、タイミングをはずすと頭を打ってしまう程、すばらしい運転技術か、慣れた道と言うべきか、ホコリを巻き上げて走り続ける。このショックでデジカメが落ちて壊れてしまい、以後は写真撮影は他の方にお願いすことしかできなくなりました。
 再び帰ったウランバートルはものすごい雑踏。それもそのはず今日は「日曜日」家族づれが繰り出している。街の交差点では「手信号」による交通整理が行われていました。

11.ゲル:モンゴル族(遊牧民)の住居はゲルとよばれる天幕です。ゲルの組立は、折り畳み式になっている格子壁を数枚円形に立て、その上に垂木をたてかけるようにする(傘のように)。頂点には天窓があり、その点窓から差し込む光の位置によって時を知るようになっています。ヒツジの毛で作ったフェルトで覆って、家畜の毛で作ったロープでまきつける。解体や組立には1時間もかからないそうです。入口の戸は南向きとなっていますが、なぜこのような南向きになっているのかガイドのブルガンさんからの質問にほとんどの人は即答できませんでした。簡単な答なのですが。ゲルを入って右側、東側が女性の座、西側は男性の座、中央は火の位置で家系を守る神が宿る。その向こう側が奥の座で、仏壇が置かれていたりする。位置ひとつにも、文化的な空間秩序が反映されています。
ゲルを訪問して、そこには65歳のおばあちゃんと長い髪の男児が歓待してくれた。馬乳酒ではなく、ミルクティーやチーズ、クッキー等手作りのもてなしを受けた。初めて参加者には遊牧生活への関心が質問攻めとなってしまった。羊の世話から水汲み、食事の支度と大変な様子を感じた。

12.モンゴル舞踊鑑賞:1つの口から2つの声を出すのがホーミーという歌い方。低い声のメロディーと一緒に笛のような高くて細かな音が聞こえる。モンゴル独特の歌唱法として伝統的に受け継がれています。女の子の曲技(オランノゴルト)、主に10代の女の子が行うモンゴルが世界に誇る肉体の芸術といわれるもので、人間の体でこの様なことが出来るのか、と思われるすばらしい演技でした。モンゴルでは、二こぶの駱駝、馬、牛、羊、山羊を五畜と呼んでいます。これらの家畜の数は人口(240万人)の12倍ぐらいといいますから、3000万頭近くいることになります。ちなみに「美しい」という字、「羊が大きい」。自分たちにとって役に立ってくれるものは、美しく見えるためでしょうか?

(1075)見・聞・触・思ったことの幾つか(モンゴル訪問記その3)
2010/07/14

6.学校訪問と交流:2006年に初めてモンゴルを訪問した際に「緑豊かな学校にしたい」という第一学校からの要請に応え、私たちが植樹した白樺130本、カラマツ10本は残念ながら枯れていました。跡形すら見えず残念至極というところでした。これも地球温暖化の影響で、様々な変化をもたらしているようです。照りつける太陽の下で、子どもの代表が民族舞踊と歌で歓迎してくれました。そして、教職員の皆さん方と教育内容などについて協議しました。その際、子どもの作品を持参いただいただいたSAKAMOTO団員からプレゼントが渡されました。
 次に訪問した第25特別学校はウランバートル市内に4ヵ所ある障害児学校の一つで、日本のNGOから派遣された東京都のMIZUSAWA先生が頑張っていました。卒業後の進路がこの国でも大きな課題となっているようです。
 夏休み期間中はいずれの学校も冬支度の壁の塗り替えやバリアフリー化のリフォ―ムまっ最中でした。この休暇中に、遊牧生活を両親や家族と行うことで、その「きずな」を深めていることがよく分かりました。

7.雨・雨、触れ降れ:雨と言えば、前回訪問した時は恵みの雨と一緒に飛行機から降りてきてくれた歓待されたことを思い出します。が、今回は帰国する際に土砂降りに近いような降雨をもたらし、帰国を惜しんでくれているのかと思った。この雨がナーダム祭を前に広い高原に緑が生き生きとしてくるのではないだろうか、恵みの雨ではないかと思いした。

8。チンギスハーン:モンゴルと言えば、やはりチンギスハーンです。飛行機で皆さんが美味しいと口にされたビールもチンギスハーンビール、機内誌の広告にもチンギスハーンブランドが幾つもありました。勿論、紙幣の肖像はチンギスハーンです。
 モンゴルではガイドの紹介で遊牧民や学校関係者の自宅訪問等を通してモンゴルの人々と対話しました。なぜ、このようなもの静かな人々の祖先が、あの大帝国を築いたのだろうかと、民族のエネルギーにもその時代毎の大きなうねりがあるのかなと思いました。
国民性を示す出来事がありました。それは、7月1日は禁酒の日ということで、徹底していたと言うことです。この日は商店ではお酒を売ってはならないと言う決まりがあり、レストランなどもお客にお酒を出してはいけないとの法律ができていると聞きました。
 ちなみに6月1日は子どもの日で禁煙の日だということでした。

9.私有地:モンゴルでは、私有地について、数年前から土地の私有が認められるようになったそうです。40m×30mの広さなら柵で囲えば、自分の所有地となると聞きました。遊牧民の住んでいる所では見られないのですが、町に入るとこのような柵のある光景がいたるところで見られました。

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